井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(その3)
f0063881_1624361.gif井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(その3)「5.『ラザロ』三部作」、「6.「ギザ十」的な風景」をお届けします。



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5.『ラザロ』三部作

――井土監督はまさにその可能性を実現していらっしゃるわけですよね。監督の最新作で、十三の第七藝術劇場でまもなく公開される『ラザロ』という作品があるんですけれども、この作品は、何らかの資本を入れている製作会社等があって、その抑制に従わないといけないというのでは全くなくて、ほぼ完全に自由な作り方をしているわけですね。ひとつにはそれがこの作品の大きな特徴であり、可能性だと思います。そのような制作方法に至った具体的な経緯は何でしょうか?

井土 当時、関西大学の学生さんもいたかもしれません。2003年の京都学生映画祭で審査員として依頼を受けたんですね。その実行委員長をやっていた木村文洋くんという人がいて、彼が、自分たちで上映だけやるのではなく、ワークショップ的に映画を作ってみたい、そこで僕に一緒に作ってもらえませんかという話が来た。これがそもそもですね。その時は断りました。映画祭が11月で、僕に言ってきたのが9月だったんで、二ヶ月で映画なんか作れるもんじゃないんだよと。だけどその人は京大の学生だったんですけど、非常にしぶといというか粘り強く、やりましょう、やりましょうと言うんで、僕としては、こいつちょっと痛い目にあわせてやろうかなくらいの気分ですよ。映画を作るってホント大変なんだよという意味で「じゃあやるよ。その代わり、映画祭はじまってもまだ撮影やってることになるかもしれないよ」と、くらいの脅しをかけて、作りはじめたっていうのが最初ですね。だからこれはキャストも含めて関西の、京都・大阪・神戸の学生たちが集まって、一本作った。カメラマンとプロデューサーだけは東京から来てもらって、あとは全部学生というなかで作ったものです。

――世の中に似たような商業映画ばかりがはびこるなか、ほぼ完全な自主制作という形でこういう三部作ができあがり、それが劇場公開される、そのこと自体、人を勇気づける出来事ではないかと思います。ここで『ラザロ』の内容をごく簡単にご紹介しますと、『蒼ざめたる馬』『複製の廃墟』『朝日のあたる家』の三部作になっています。『蒼ざめたる馬』は、マユミという女性が中心となって、資産家の息子たちをたぶらかし、殺害して、金品を奪うというストーリー。『複製の廃墟』は、同じくマユミが、別の女性と組んで、偽札を大量に作ってばら撒く。それによって日本の経済を撹乱させるんですね。で、『朝日のあたる家』では時代が前に戻って、なぜマユミがこうなったかということを探るんですけども、ここで予告編を観てみたいと思います。

〈 『ラザロ』予告編上映 〉

――今の予告編で、たとえば「格差社会」という言葉が出てきました。マユミという主人公は、いわゆるグローバル資本主義にある種絶望的な抵抗を試みている。この作品全体のモチーフは、どういうところにあるんでしょうか?

井土 この映画だけではないのかもしれないですが、人間の悪意とか憎悪というものが生まれる場所って何なんだろうと思うんです。たとえば、それぞれ自分の世代というのがある。僕が19か20歳くらいの時、東京の足立区で、女子高生のコンクリート殺人というのがあったんですね。ひとりの女子高生を監禁して、僕くらいの世代の連中が散々レイプしてなぶり殺して、最後はドラム缶のなかにコンクリート詰めにして捨てたという事件。たぶん皆さんも聞いたことあると思うんですけど、そういうのってすごく衝撃を受けますよね。なぜ人間はそういうことをやれるんだろう。しかも自分と同い年くらいの変わらない奴がなぜそういうことをやったんだろうっていうのがひとつ、もともと僕が映画とかを作るうえで、犯罪とか事件に惹かれながら作っている理由ですね。たとえばここにいらっしゃる皆さんだったら、酒鬼薔薇の事件とかね。たぶん、わかるところとわからないところがあるはずなんですよね。たとえば『ラザロ』をやる前に僕が考えていたのは、池田小の宅間守の事件とか、韓国で資産家をいっぱい殺した柳永哲(ユ・ヨンチョル)。そういう人間の攻撃性とか憎悪とか悪意みたいなもの。この世界の枠組みのなかでなぜそれが生まれてくるのかを探求したのがこの『ラザロ』だと思っています。それは今振り返って言えることで、作っている時はがむしゃらに、自分が引きずられる線を一本一本手繰りながら作っていったんですけど、『蒼ざめたる馬』『複製の廃墟』『朝日のあたる家』と作っていって、最終的に、普通にこうやって人間が生きているなかから、ある種の人間の悪意みたいなものが生まれてくるんだな、というところになんとなくたどり着いた。僕らの今の世界と生活のなかから、ひとつの怪物は生まれるんだということをこの映画ではやったのかなと思います。

――今のお話をうかがっていて、ある一本の映画を思い出しました。『略称・連続射殺魔』という作品です。永山則夫が連続射殺をしたという事件が40年くらい前にありまして、彼をめぐる集団制作の映画なんですが、それは念頭にありましたか。

井土 いや、それはなかったですね。むしろ最初に話した『ゴジラ対ヘドラ』かな。ヘドラっていうのは僕にとってものすごい恐怖として映ったんですけど、のちにもっと大きくなって教科書とかで学んでいくと、企業がある製品を作るために公害として害毒物質を垂れ流して、有害物質が川や海にたまってヘドロができて、ああそうか、そこからあのヘドラっていうのは生まれたんだなっていう、いわば人間が生きてくうえでどうしようもないこと、人間が生活していくうえで出てくるネガティブな要素がヘドロであり、それをフィクションとして『ヘドラ』を作ったわけですよね。それはわかりやすいじゃないですか。ヘドロは悪、ヘドラは怖ろしいっていう。これは高度成長期だからわかりやすく作れたと思うんですが、じゃあ今の時代に生まれてくる怪物はどこから生まれてくるのかを探ったのが――ヘドロを探したっていうんですかね、僕なりに――それが『ラザロ』っていう映画だと思います。

――ヘドロのような形で、見えないけれども、それに相当するものが何かあるだろうということですね。ところで、このラザロ三部作のタイトルには、何か特別な意味合いが含まれているんでしょうか?

井土 いや、若干何かは象徴させているんですけど、タイトル決めるときはまずカッコいいっていうのが基本ですね。まあ観ればなんとなくああそうかと思うようにはしてるんですけど。

――『百年の絶唱』というのもわかるようで……まだわかりますね。

井土 『百年の絶唱』もまあわかんないっちゃわかんないですよね。

6.「ギザ十」的な風景

――では、井土監督のこれまでの歩みを時系列順に辿るということはこの辺にして、もう少し具体的な映画の演出等についてうかがっていきたいと思います。井土監督の映画にはいろいろな要素があると思うんですが、やっぱり風景というのが非常に印象的で、監督も非常にこだわっていらっしゃるのではないかと思うんですね。『百年の絶唱』という作品では、水没したダムの傍らに立つ廃校という非常に印象的な風景が出てきます。また、『ラザロ』の『朝日のあたる家』編では、三重県のいわゆるシャッター商店街が出てきます。そういった風景へのこだわりについてお伺いしたいのですが。

井土 単純にいい風景が撮れればいいというわけではなくて、『平家物語』じゃないですけど、栄枯盛衰的な――ひとつの文明が栄えて、またそれが滅びていったようなものが見えるようなところが好きなんですね。要するに、単なる断崖絶壁を撮ればいいというわけではなくて、そこで人間が暮らした、あるいはそこにある種の歴史の層が見えるような空間に惹かれます。それは人間の不在証明みたいなものだと思うんです――ダムに沈んだ村と遺された小学校とか、シャッター商店街にしてもかつては活気があって人が行き交ってたものが、グローバル経済によって市街地が陥没して、郊外のショッピングモールだけがどんどん隆盛していくという現象によって生み出されているわけですよね。つまり、世界的な動きのなかである現象が起こっていく。それを映像として端的に見せられるものが好きなんですよ。そこにたぶん僕は人間としてのドラマを感じるっていうことなんですね。
 ちょっと長くなるかもしれないですけど、たとえばこういう話があって、これはシナリオライター志望の若者から聞いた話なんですけど、彼はコンビニで深夜のアルバイトをしながらシナリオ書いたりバンドやったりしてるんですね。彼の働いてるコンビニに毎晩、明らかに普通のサラリーマンではない、音楽だか演劇だかをやってる風貌の40代半ばくらいのおじさんが来て、いちばん安い300円くらいの弁当を買っていくらしい。彼も話したことはないんだけど、そのおじさんにはシンパシーを感じていた。「いい歳だけど頑張ってんだなー」と思って。ところが、ある時そのおじさんがポンと来なくなった。一週間近く姿を見せない。彼は毎日バイトしてるから、「あれおかしいな、おっさん来ないな、大丈夫かな」と思ってる。そしたら十日くらいして、その人が久しぶりに、寝巻きに近いような格好で、無精髭ぼうぼうのやつれた顔で姿を見せた。「あ、おっさん、たぶん風邪ひいたか、すごい病気して仕事もできなくてずっと寝てたんだろうな」という状況だったらしいです。で、その時にそのおじさんが、そのコンビニでいちばん高い700いくらの幕の内弁当をレジに持ってきたらしいんですね。「そりゃ栄養つけなきゃいけないからな」と彼も思った。そしたらおじさんは、700いくらの弁当に対して、スーパーの――肉とか魚のパックを入れるような――透明の袋をパッと差し出して、レジの上に出したらしいんですよね。それ全部十円玉だったらしいんですよ。スーパーのビニール袋にぎっしり十円玉が詰まってて、「たぶんこれ7、800円あると思うんだけど、これで頼むよ」って言われて、「あ、わかりました」って。これだけだと、まあ、あってもおかしくない話ですよね。でも「それでどうなったの?」って訊いたら、「その十円玉が、全部ギザ十だったんですよ」って彼が言ったわけです。これはよく考えるとすごいことなんです。ギザ十を80枚貯めるっていうのはおそらく一年や二年では絶対できません。試しに僕もやってみたんですけど、そうは見つからないですよ。ギザ十って価値があるとか、幸運を呼ぶとかいうから、そのおじさんは貯めてたんだと思うんです。でも80枚貯まるにはおそらく10年近い月日が必要だと思うんですよ。で、その幕の内を買っていって、それっきりそのおじさんはもうそのコンビニには来なくなったらしい。ていうことはそのおじさんは、そこで自分の夢をあきらめて、東京から自分の実家に帰ったんだろうとか、要するにそのおじさんの東京生活みたいなものが、その80枚のギザ十でパッと具象化されるというか、非常に抽象的なんだけども、そこに人生を想像することができるシチュエーションで、こういう時に僕の想像力は飛翔するんですよね。
 ダムと遺された小学校とか、シャッター商店街ってのは、まさにその十円玉のギザギザと同じなんですね。ツルツルだったら、僕はその話すぐ忘れてると思うんですけど、十円玉のギザギザがあるかないかで風景の見え方が全然変わってくる。そこで初めて僕のなかで何かが動き出すっていうのはありますね。

――映画はイメージで表現するものですから、撮りたい観念があっても、それだけでは映画にできない面があるわけですね。その観念が、十円玉のギザギザ的なものと出会って一気に展開する。そういう瞬間はご自身でも非常に気持ちのいい瞬間なのではないかと思います。

井土 そうですね。結局イマジネーションですね。空白と出会うからイマジネーションが沸く。でも空白って他が充実していないとそれを空白とは意識できない。

――『ラザロ』の話に戻りますが、映画の中ほどで車椅子の人が出てきて、それを囲んだ5、6人の人たちがシャッター商店街の奥に消えていくという印象的な画面があります。あれはいったい何なんでしょうか?

井土 あれは不吉な予兆ですね。映画ってたぶんバランスだと思うんですね。それまでは幸せなシーンを描いていたので、幸せさの後にはポンと不吉なシーンをぶつけたいと。これは作劇のうえで大きな狙いとしてあった。もうひとつは、そこで大手ショッピングモールの男が出てきます。彼の目の前にそうした不吉な予兆が現れることによって、お前はもう帰れないぞと、そういう狙いとして入れています。
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by eizoubunka | 2010-05-12 11:05 | コラム
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