カテゴリ:コラム( 12 )
シンポジウム・映画上映・講演会「侯孝賢映画から台湾、そしてアジアを知る」参加記(その2)
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以下はシンポジウムのコメント原稿です。(菅原慶乃)

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by eizoubunka | 2011-06-30 20:45 | コラム
シンポジウム・映画上映・講演会「侯孝賢映画から台湾、そしてアジアを知る」参加記(その1)
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シンポジウム・映画上映・講演会「侯孝賢映画から台湾、そしてアジアを知る」参加記(菅原慶乃)

 2011年6月28日、関西学院大学にて標題シンポジウムが開催された(主催:関西学院大学/台湾行政院文化建設委員会/財団法人自由思想学術基金会)。実はこれに先立つ先週末、名古屋で「台湾映画祭+シンポジウム――侯孝賢の詩学と時間のプリズム」(主催:名古屋大学大学院国際言語文化研究科、台湾・行政院文化建設委員会、財団法人自由思想学術基金会、愛知芸術文化センター)が開催されており、関西学院大のイヴェントは名古屋のシンポジウムの姉妹編というべき催しであった。

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by eizoubunka | 2011-06-30 20:39 | コラム
舩橋淳監督講演会参加記
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編集委員の怠惰のせいで大変時間がかかってしまいましたが、
関西大学映像文化専修の学生が先日行われた舩橋淳監督講演会の参加記を書いてくれました。

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by eizoubunka | 2010-07-17 21:52 | コラム
井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(その4)
f0063881_1624361.gif井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(その4)「7.素人俳優とプロの俳優」、「8.『LEFT ALONE』の編集作業」、「9.音楽の使い方」をお届けします。本インタビューは今回で最終回となります。

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by eizoubunka | 2010-05-12 11:06 | コラム
井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(その3)
f0063881_1624361.gif井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(その3)「5.『ラザロ』三部作」、「6.「ギザ十」的な風景」をお届けします。

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by eizoubunka | 2010-05-12 11:05 | コラム
井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(その2)
f0063881_1624361.gif井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(その2)「3.『百年の絶唱』」、「4.『LEFT ALONE』」をお届けします。

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by eizoubunka | 2010-05-10 16:10 | コラム
井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(その1)
f0063881_1624361.giff0063881_2134394.jpg関西大学映像文化学会ニューズレター創刊号に短縮バージョンを掲載しました井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(聞き手:堀潤之)の全文を数回に分けて掲載します。今回は「1.上京からアパートまで」、「2.瀬々敬久監督とシナリオ執筆」をお届けします。

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by eizoubunka | 2010-05-07 14:57 | コラム
『The ショートフィルムズ』鑑賞記
 朝日放送の新社屋完成を記念して、7月中旬に、阪本順治・井筒和幸・大森一樹・李相日・崔洋一の5人の監督によるオムニバス映画『The ショートフィルムズ』が公開されました。以下に掲載するのは、映像文化専修3回生のIさんによる鑑賞記です。



 映画が始まる前のわくわくした感じは何ともいえないものです。会場に集まった人がこれから始まることに期待している。そういう場所に自分が居れたことが嬉しかったです。「子供」がテーマというショートフィルムたち。最初は「子供」で感動を誘う様な、ありがちな作品じゃないかと高を括っていた気持ちもありました。そんな気持ちは上映が始まって少しの間で裏切られるのですが。5作品が揃った、この『The ショートフィルムズ』。どの作品も、それぞれの個性が光っていてさまざまなアプローチがありました。監督の想い、役者の気迫…多くの要素が合わさって完成した作品たち。真剣な眼差しがどれもこれも、それぞれにステキでした。

 会場に時々笑いが沸き起こり、嬉しさや悲しさを抱き、感動の空気が重なり合う。その空間がとても心地よかったです。何かが大きく変わるわけではないかもしれないけれど、この作品たちをずっと忘れないでいたいです。『The ショートフィルムズ』との出会いに感謝です。

 阪本順治監督の『展望台』は死を決意したおじさん(佐藤浩市)と、親に見捨てられた少年(小林勇一郎)が夜の通天閣で一晩を一緒に過ごします。「なんでなん、なんでやねん」という瞬間が何度も訪れて、少し切ない場面もありました。作品中、ずっと同じ場所で話が進んでいくので少し舞台劇を思い浮かべる感覚でした。大人に教わる子供と子供に教わる大人、お互いが飾らないから寄り添えた暖かい作品でした。登場する、少年が良い味を出していました。

 井筒和幸監督の『TO THE FUTURE』はとある小学校が舞台。個性がバラバラな生徒たちがそれぞれに成長している様子が分かります。今、話題のモンスターペアレンツやモンスターティーチャー(光石研)が登場し、ドタバタ劇が繰り広げられます。子供は大人びた面を持ち、冷静。ワーワーわめく先生や親の方がよっぽど子供っぽく見えました。笑えないユーモアも入れるところが大胆で井筒監督らしさが出ていました。賑やかな作品でした。

 大森一樹監督の『イエスタデイワンスモア』は五作品の中では一番現実離れをしている作品だったように思います。子供(佐藤隆太)が母(高岡早紀)のために奮闘する『浦島太郎』を髣髴させるお伽噺です。このお話では玉手箱が登場して、ある少年が急に歳をとるシーンがあるのですが。現実には玉手箱はないし、急に歳をとることも若返ることもできません。だけど、お伽噺は大人の心も子供の心も動かせる力を持っています。子供は急に大人にはなれないし、大人はもう子供には戻れない。時間の大切さが伝わってきました。

 李相日監督の『タガタメ』は5つの作品の中で一番シリアスな作品でした。医師にあと三ヶ月の命だと告げられた初老の男(藤竜也)には、知的障害を持った息子(川屋せっちん)が一人いるという設定です。息子のために生きたいと願った男の切ないお話でした。ハッピーエンドと呼んでいいのか、そうとは言えないのか、難しい結末でした。シリアスな物語の中に少しユーモラスな死神(宮藤官九郎)を加えることで、作品にメリハリが見られました。男の死は刻一刻と迫り、観ている方もどうにかならないかと思い胸が苦しくなります。全く同じ状況でなくとも、現実にも解決できない問題がたくさん溢れていることに気づかせてくれました。

 崔洋一監督の『ダイコン~ダイニングテーブルのコンテンポラリー』は日常的で愛くるしい作品でした。ワイドショーや新聞を見て独り言をつぶやく母親(樹木希林)、のほほんとした老後を送っている父親(細野晴臣)、実家に戻ってきた娘(小泉今日子)。ダイニングテーブルを囲むそんな家族は、気持ちが通じ合ってないように見えるのに、バランスがとれている感じが笑えました。突然とびだす娘のギャグも母親の口走る独り言も、気の抜けた父親の表情も愛らしくておもしろかったです。登場する人物の行動や言動はどことなく冷めていて、飾らない「家族」という表現がされているなと思いました。何よりも、遠まわしに環境問題について語っているところは見逃せません。
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by eizoubunka | 2008-07-31 10:24 | コラム
パリ留学記
パリ留学記
松本吉弘


 私は現在関西大学の交換留学制度でパリ第3大学に通い映画を研究しています。早くも八カ月が過ぎました。ということで、パリの映画を取り巻く状況を大学・映画館を中心に紹介したいと思います。

 まず大学で授業を受けて感じたことに、世界中の学生が映画を学びに来ているということです。それだけに、授業の量・質とも想像を超えるものがありました。本や雑誌で見かけたたりDVDの特典で解説をしている第一線研究者が教授として授業をやっています。

 授業は映画そのものを取り扱ったもの以外に(これだけでもたくさんの種類があります)、文学や演劇・建築などの隣接する学問領域との関連性を問うものがあり、映画にまつわる経済、社会学、テレビ作品等々数を挙げればきりがありません。

 そして、大学内には映画を定期上映する特別のホールがあります。そこでは週に十本観ることが出来ます。全作品は大学内で所蔵している本物のフィルムを上映しています。それだけに音声が聞き取りにくい時もありますが、レアなフィルムを大画面で味わえる醍醐味は筆舌に尽くしがたいものがあります。

 上映プログラムもまた、授業の内容に沿ったものや特別に企画されたものがあります。パリ現代美術館で吉田喜重監督のレトロスペクティヴがなされた時、監督と彼の妻で女優の岡田茉莉子さんを呼んで、作品上映・討論会が企画されました。また先行上映なども行われます。

 図書館には映画の研究資料が他の学問領域同様豊富にあり、視聴覚ブースでは授業で紹介された作品もすぐに観ることが出来ます。

 またパリには映画研究機関として、シネマテーク・フランセーズという国立の施設があります。そこでは映画資料の保管・収集・展示・上映をしています。ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが足しげく通った映画館がもとになっており、それだけでも映画研究者や映画ファンにとって感慨深いものがあります。

 ここのフリーパスでは、上映はもとより試写会・展示・討論会・学会・映像図書館(貴重な作品も視聴可)が一年間無料で利用出来ます。国・時代・ジャンルを問わず、シネマテーク選りすぐりの作品が観られるのが魅力です。また、レトロスペクティヴでは特定の監督の全作品が一挙に上映されます。前回はハワード・ホークスで、着いたばかりの時は増村保造の特集がやっていました。

 街にも映画館が多くあります。UGC(映画の製作・配給・上映会社)の年間パスを買うと、小さな映画館でも提携のある館であればそのパスを使い映画を観ることが出来ます。それをうまく利用することで大作映画から作家性の強いものまで自由に楽しめます。

 パリの映画館は夜の10時や11時から上映しているところもあり、仕事帰りのサラリーマンや、夕食後にも気軽に映画を楽しむ環境があり、土曜日・日曜日には子供を連れや老夫婦が仲睦まじく映画を楽しんでいる光景をよく目にします。映画館で映画を観ることが日常の娯楽として受け入れられていることを強く感じます。

 更に、最近のパリでの映画体験として。『ロッキーホラーショー』を観る機会がありました。これは「B級」「カルト映画」と呼ばれるもので世界中に根強いファンがいます。パリでは、恐ろしいことに、毎週土曜日に上映がなされています。

 当日も観客は大入りで、映画館の前に長蛇の列を作っていました。スタッフは作中のキャラクターに扮し、スクリーンの前で歌ったり踊ったり、つっこみを入れます。やり過ぎの観も否めませんが、観客と一体に楽しむ上映スタイルはスペクタクルそのものと言えます。因みに、友達は水をかぶり途中トイレに避難していました。

 このように、パリでは映画を芸術として受け止め、且つ娯楽としても楽しむ習慣を感じることが出来ます。根本に研究者でなくても、ファンでなくてもふらりと立ち寄れる映画がまずある。日本ではどうでしょう? 帰国後考えたいと思います。

【執筆者紹介】
松本吉弘。関西大学大学院文学研究科 総合人文学科フランス文学専修 博士課程前期課程在籍。
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by eizoubunka | 2008-05-30 00:37 | コラム
コリン・マッケイブ『ゴダール伝』書評
コリン・マッケイブ『ゴダール伝』(堀潤之訳、みすず書房、2007年)書評
Colin MacCabe, Godard: A Portrait of the Artist at Seventy, London: Bloomsbury, 2003.

大谷昌之


 「神々と半神たち」と題された章で始まる本書は、まさに現代の神話であると言える。その名のうちにGodを含む男の伝記なのだから、そう言って悪いことはなかろう。事実、『映画史』のラストにおけるコールリッジの詩(を引用したボルヘスの短篇)の引用(*1)とともに、ゴダールは映画の神に、それどころかヨーロッパ文化の神になったかのごとくである。

 だが、あらゆる神話がそうであるように、神話は神話であり、決して神そのものに代わることができない。幾頁を費やそうとも、本書はジャン=リュック・ゴダールその人を描ききることはないだろう。これはプラトンによる対話編がソクラテスその人を描ききれなかったとき以来エクリチュールに課された運命なのである。

 そうであるならば、ゴダールその人になることなど端から諦めてはどうか? 著者コリン・マッケイブは、ゴダールその人ではなく、ゴダール《と》歴史を書くことに専念している。気をつけていただきたいのは、それがゴダール《の》歴史ではないことだ。ゴダールという名の下に一直線上につづく「ただひとつの歴史」ではなく、その名の下に引き寄せられる「複数の歴史」。それは、『映画史』のテーマでもあったものである。

 本書を繙く者は、その内容の豊かさに驚くであろう。

 第1章では、ヨーロッパの伝統的大ブルジョアジーであるモノー家と、いささか素性の怪しいゴダール家という、後のジャン=リュックを産み出すふたつの血脈について書かれている。ここから明らかとなるのは、ゴダール《と》ヨーロッパの伝統とのアンビヴァレントな関係である。なぜ彼は裕福な家系に生まれながら、かくも執拗に盗みをはたらくのか? なぜバルザックを愛読しながら、映画などという不埒な芸術に手を染めるのか? 私たちは、ゴダールという男がその出自からして異質なもの同士の接続によってあることを知るだろう。

 第2章、第3章では、いよいよゴダールと映画との関係が語られる。そこで重要なキーワードとして挙がるのが、ラングロワ、バザン、『カイエ・デュ・シネマ』、トリュフォー、ヌーヴェル・ヴァーグ……といったおなじみのものだ。しかし、本書の興味深い点は、ゴダールと直接関係のない初期映画から話を始めていることだろう。そこからラングロワ、バザンへとつながり、ゴダールへとつながっていく。ただし、それがまたしても一直線の歴史として書かれているのではないことに留意すべきである。事実、本書の記述はしばしばゴダール本人の伝記的記述から脱線する。著者は有名なジョイス研究者でもあるせいか、しばしば語り口がペダンティックになりがちである。しかし、それが何だというのだろう? ゴダールという名がそのような脱線を惹起するのだとすれば、その魅惑に抗する必要はあるまい。

 著者の本領は、ゴダール《と》68年を扱った第4章で発揮されるだろう。68年は世界中の知識人にとってひとつのメルクマールでありつづけている。その中心がパリであったことは言うまでもない。5月に始まった学生たちのデモは、フランスのみならず世界中を巻き込んだ大きな政治的変革の動きとなり、やがて「5月革命」と呼ばれることになる。ゴダールを含むヌーヴェル・ヴァーグの監督たちもこのデモに参加し、カンヌ映画祭を中止に追い込んだ。一方、フーコーの『言葉と物』、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』が出版されたのもこの年であり、68年は知的にも豊穣な年であったと言えるだろう。この時期にゴダールは商業映画を放棄し、ゴランらとともに「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成する。

 しかし、68年は政治的にも知的にも失敗に終わる。たしかに5月革命の学生たちは後のミッテラン政権を準備することになったが、実際にド・ゴール政権を倒すには至らず、運動は急速に衰えていった。ジガ・ヴェルトフ集団は『東風』などの傑作を残したが、この共同作業もまた結果的に失敗に終わったと言えるだろう。第4章はゴダールとゴランの決別によって締めくくられる。

 第5章ではジガ・ヴェルトフ集団の解散以後、アンヌ=マリ・ミエヴィルとの出会いから今日に至るまでが描かれる。残念ながら、本章の記述は他章に較べていささか魅力に欠ける。彼の人生において最も多産で豊穣なこの時期を描くには紙幅が足りなかったということもあるのだろう、記述には単調な感がある。だが、最も輝かしいと同時に最も難解でもあるこの時期の作品群をどう位置づけるのかは、むしろこれから考えられるべきことなのだろう。

 こうして本書を眺めてみると、ゴダールという男があまりにも複数的であることがわかる。そのため、本書の内容はしばしばゴダールの伝記であることを超えてしまうだろう。だが、ゴダール以上であることこそがゴダールの本質ではなかったか。異質なものとの接続、《と》、これらを考え合わせてみれば、ゴダールがかくも「モンタージュ」にこだわる理由が見えてくる。彼は知っているのだ、ひとつの歴史などという観念が虚妄であることを。だから、複数の歴史こそが描かれなくてはならない。そして、それは映画によってのみ可能なのである。本書はこの複数性をしっかりと捉えている。著者による綿密な調査と、深い教養とによってしかなせぬ仕事であろう。必読の書である。

(*1)「もしある男が、もしある男が、夢の中で楽園を横切り、通り抜けた証として、一輪の花を受け取り、目覚めたとき、手の中にその花があるのに気づいたとしたら、何と言ったらよいのか。私はその男だった」。この言葉は本書第5章の最後(319頁)にも引用されている。上記の引用も本書からとった。

【評者紹介】
大谷昌之。1984年生まれ。現在、関西大学文学部総合人文学科フランス語フラン
ス文学専修四回生。
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by eizoubunka | 2007-10-16 14:10 | コラム