コリン・マッケイブ『ゴダール伝』(堀潤之訳、みすず書房、2007年)書評
Colin MacCabe, Godard: A Portrait of the Artist at Seventy, London: Bloomsbury, 2003. 大谷昌之 「神々と半神たち」と題された章で始まる本書は、まさに現代の神話であると言える。その名のうちにGodを含む男の伝記なのだから、そう言って悪いことはなかろう。事実、『映画史』のラストにおけるコールリッジの詩(を引用したボルヘスの短篇)の引用(*1)とともに、ゴダールは映画の神に、それどころかヨーロッパ文化の神になったかのごとくである。 だが、あらゆる神話がそうであるように、神話は神話であり、決して神そのものに代わることができない。幾頁を費やそうとも、本書はジャン=リュック・ゴダールその人を描ききることはないだろう。これはプラトンによる対話編がソクラテスその人を描ききれなかったとき以来エクリチュールに課された運命なのである。 そうであるならば、ゴダールその人になることなど端から諦めてはどうか? 著者コリン・マッケイブは、ゴダールその人ではなく、ゴダール《と》歴史を書くことに専念している。気をつけていただきたいのは、それがゴダール《の》歴史ではないことだ。ゴダールという名の下に一直線上につづく「ただひとつの歴史」ではなく、その名の下に引き寄せられる「複数の歴史」。それは、『映画史』のテーマでもあったものである。 本書を繙く者は、その内容の豊かさに驚くであろう。 第1章では、ヨーロッパの伝統的大ブルジョアジーであるモノー家と、いささか素性の怪しいゴダール家という、後のジャン=リュックを産み出すふたつの血脈について書かれている。ここから明らかとなるのは、ゴダール《と》ヨーロッパの伝統とのアンビヴァレントな関係である。なぜ彼は裕福な家系に生まれながら、かくも執拗に盗みをはたらくのか? なぜバルザックを愛読しながら、映画などという不埒な芸術に手を染めるのか? 私たちは、ゴダールという男がその出自からして異質なもの同士の接続によってあることを知るだろう。 第2章、第3章では、いよいよゴダールと映画との関係が語られる。そこで重要なキーワードとして挙がるのが、ラングロワ、バザン、『カイエ・デュ・シネマ』、トリュフォー、ヌーヴェル・ヴァーグ……といったおなじみのものだ。しかし、本書の興味深い点は、ゴダールと直接関係のない初期映画から話を始めていることだろう。そこからラングロワ、バザンへとつながり、ゴダールへとつながっていく。ただし、それがまたしても一直線の歴史として書かれているのではないことに留意すべきである。事実、本書の記述はしばしばゴダール本人の伝記的記述から脱線する。著者は有名なジョイス研究者でもあるせいか、しばしば語り口がペダンティックになりがちである。しかし、それが何だというのだろう? ゴダールという名がそのような脱線を惹起するのだとすれば、その魅惑に抗する必要はあるまい。 著者の本領は、ゴダール《と》68年を扱った第4章で発揮されるだろう。68年は世界中の知識人にとってひとつのメルクマールでありつづけている。その中心がパリであったことは言うまでもない。5月に始まった学生たちのデモは、フランスのみならず世界中を巻き込んだ大きな政治的変革の動きとなり、やがて「5月革命」と呼ばれることになる。ゴダールを含むヌーヴェル・ヴァーグの監督たちもこのデモに参加し、カンヌ映画祭を中止に追い込んだ。一方、フーコーの『言葉と物』、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』が出版されたのもこの年であり、68年は知的にも豊穣な年であったと言えるだろう。この時期にゴダールは商業映画を放棄し、ゴランらとともに「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成する。 しかし、68年は政治的にも知的にも失敗に終わる。たしかに5月革命の学生たちは後のミッテラン政権を準備することになったが、実際にド・ゴール政権を倒すには至らず、運動は急速に衰えていった。ジガ・ヴェルトフ集団は『東風』などの傑作を残したが、この共同作業もまた結果的に失敗に終わったと言えるだろう。第4章はゴダールとゴランの決別によって締めくくられる。 第5章ではジガ・ヴェルトフ集団の解散以後、アンヌ=マリ・ミエヴィルとの出会いから今日に至るまでが描かれる。残念ながら、本章の記述は他章に較べていささか魅力に欠ける。彼の人生において最も多産で豊穣なこの時期を描くには紙幅が足りなかったということもあるのだろう、記述には単調な感がある。だが、最も輝かしいと同時に最も難解でもあるこの時期の作品群をどう位置づけるのかは、むしろこれから考えられるべきことなのだろう。 こうして本書を眺めてみると、ゴダールという男があまりにも複数的であることがわかる。そのため、本書の内容はしばしばゴダールの伝記であることを超えてしまうだろう。だが、ゴダール以上であることこそがゴダールの本質ではなかったか。異質なものとの接続、《と》、これらを考え合わせてみれば、ゴダールがかくも「モンタージュ」にこだわる理由が見えてくる。彼は知っているのだ、ひとつの歴史などという観念が虚妄であることを。だから、複数の歴史こそが描かれなくてはならない。そして、それは映画によってのみ可能なのである。本書はこの複数性をしっかりと捉えている。著者による綿密な調査と、深い教養とによってしかなせぬ仕事であろう。必読の書である。 (*1)「もしある男が、もしある男が、夢の中で楽園を横切り、通り抜けた証として、一輪の花を受け取り、目覚めたとき、手の中にその花があるのに気づいたとしたら、何と言ったらよいのか。私はその男だった」。この言葉は本書第5章の最後(319頁)にも引用されている。上記の引用も本書からとった。 【評者紹介】 大谷昌之。1984年生まれ。現在、関西大学文学部総合人文学科フランス語フラン ス文学専修四回生。 by eizoubunka | 2007-10-16 14:10 | コラム
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