井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(その4)
f0063881_1624361.gif井土紀州監督インタビュー「野蛮な映画に向けて」(その4)「7.素人俳優とプロの俳優」、「8.『LEFT ALONE』の編集作業」、「9.音楽の使い方」をお届けします。本インタビューは今回で最終回となります。



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7.素人俳優とプロの俳優

――俳優についてお伺いします。映画は俳優を動かして作るものですから、どうやって俳優と接するかというのが監督の演出術の要の一つだと思います。『ラザロ』を拝見しますと、俳優に即興とまではいかないものの割と伸び伸び演技をさせている感じで、『百年の絶唱』はそうでもなかったという印象があります。俳優に対するスタンスの取り方、俳優にどういう演出をするのかということを伺いたいのですが。

井土 僕は素人の方と仕事をすることが多いんですが、素人は俳優には絶対に出せない生々しさがあるんですね。ただ、多くはリズムがない。俳優さんは固有のリズムを持っている。映画というのは時間を作るものなんですね。演出というのも、いかに充実した時間を作るかということだと思うんです。で、俳優さんには一番そこを担ってもらわないといけない。それが心地よく見えるようにするのが、プロフェッショナルとしての俳優の仕事です。一方、素人はリズムはないんだけど、なんか本職の俳優さんには出せない生々しさを出してくれたりする。だから素人の人たちとやるときはできるだけ彼らがリズムをつけられるようにして、逆に俳優さんとやる時は、彼らが持っている芝居以上の何かが引き出せないかということを考えます。だから、プロの役者さんと素人を混ぜてやると面白いといえば面白い。

――ただ素人とやる場合でも、やはり単に素人くさい演技が目立ってしまってはまずいわけで、プロなみとはいかないまでも、プロと拮抗しうる強度が必要だと思うんですが、そのあたりの苦労はありませんか?

井土 その話で言うと、僕らの世代にはわからない話があって、たとえば澤井信一郎監督という監督がいらっしゃいます。最近ではモーニング娘。の映画、僕らの時代だと『Wの悲劇』とか『早春物語』などを撮っている監督です。で、澤井監督はマキノ雅弘という名匠の助監督を長くやっていた方なので、日本映画の伝統的な演出方法を知っている。たとえば澤井さんと話をすると、あそこのリズムが悪いんだよとか、あそこはこうするんだよと言われる。そうすると、ああ、そうかと。素人の演出でもああすればいいんだという引き出しが凄いんですね。僕は酒飲みながら話聴いててそれをメモるわけです。そういう失われたもの、撮影所の伝統的な演出法というのがあったんですけど、それを受け継いでないんですね、僕らは。

――そうですね。職人レベルでは受け継がれているかもしれないですけど、演技指導に関しては監督がやるしかないですから。ぜひ受け継いでいかないといけないわけですね。

井土 たとえばマキノの『日本侠客伝』を観ると、あれは萬屋錦之介がヤクザの客分で、最後敵のところに殴りこみにいく。その前のシーンで家に帰ってきて、三田佳子が奥さんで、自分の娘を抱くんですね。そうすると娘が錦之介のほっぺたをこうやって触るんですね。そうすると涙は見せてないけれども、錦之介が泣いているということがわかるんです。娘に頬を触らせることで表現する。これは演出ですよね。僕らは考えたこともなかった。形なんだと。形があれば泣いているっていう情報は伝わるということが、マキノの映画を観るとわかる。こういう演出をどうすれば取り戻せるかを僕は今考えてますね。

――先程も素人を出すことで生々しさが出るというお話を伺いましたが、それに関連して、格闘するようなシーンが『ラザロ』にあります。つかみあったり、体と体がぶつかりあうようなシーン。『百年の絶唱』でも男が別れた彼女の家に忍び込んでボコボコに蹴られる。そういう暴力や格闘のシーンにご興味はおありですか?

井土 それはすごくありますね。結局人間の目が行くのは、幸せなシーンよりも、騒然としている方ですから。ドラマってたぶんそういう動きのなかにあると思うんです。

――映画で殺人とかがよく出てくるのもそういう関心によるものですか?

井土 単純に殺人や暴力が好きなわけでありませんよ。むしろ、そういうものが発動せざるをえない悲劇的なシチュエーションに興味があるということです。アクション的なことでいうと、日本って銃社会じゃないので、拳銃とかにはあまり興味がないです。もともとピンク映画で男女の性愛みたいなものを描いていたので、首を絞めるとか、もうちょっと体が密接に触れ合うようなのが好きですね。

――拳銃だとやはり距離の要素が入ってくるので、どちらかと言うと乾いた殺し方になりやすいですね。

井土 そうですね。ドラキュラとかも首に噛み付くというのがエロティックじゃないですか。

8.『LEFT ALONE』の編集作業

――続いて編集について伺いたいと思います。映画制作において編集は重要な過程ですが、井土監督は『百年の絶唱』からかなり完成された編集をしていた印象があります。『LEFT ALONE』は膨大なインタヴューの断片をたくみに組み合わせていく、編集の力量を問われる映画だったと思うのですが。

井土 『LEFT ALONE』の編集は地獄でしたね。今はノンリニアでデジタルで編集するのが普通だと思うんですが、僕は実際に回したフィルムを切って貼ってとやってきた世代だったので、物質的な変化はものすごくあったと思うんですよ。たとえばみなさん生まれたときにレコードはあったんでしょうか。アナログな道具を使って何かを作っていくのが僕には普通だったんですけど。
 『LEFT ALONE』はデジタルの罠にはまった作品でしたね。劇映画だと僕は撮りながら脳内で編集する(カット割りする)んですが、『LEFT ALONE』はドキュメンタリーで、デジタルでノンリニアで、いくらでもつなげて好きにやれるから、とにかくいっぱい撮っときゃいいやと思って、両側でしゃべってる人を延々何時間も撮って、でもまあ編集でなんとかなると思ったのが大きな間違いでした。結局シナリオとか自分のなかでのカット割りがないから、映像を観ながら自分でもう一回シナリオ書くみたいな作業をしなければならなかった。それがデジタルの大きな罠だと思いました。
 若い人が撮ってるのを観ると、ものすごく素材主義になってると感じるんですよ。素材を押さえておいてあと編集で何とかするっていう考え方。これは気をつけた方がいいと思いますね。際限がなくなっていく怖さがあります。

9.音楽の使い方

――『百年の絶唱』では、主にふたつの音楽が使われていました。ひとつは和田アキ子の《どしゃ降りの雨のなかで》という歌謡曲。これがレコードとして出てきまして、妙に映画にマッチしている。もうひとつがベートーベンの第九交響楽で、ラストのいちばん盛り上がるところで延々とかかる。ひとつの映画に和田アキ子とベートーベンが同居するという不思議があったと思います。『ラザロ』では音楽的な面での工夫は何かありますか?

井土 音楽については、演出と関わってくると思います。『百年の絶唱』では常に異化効果として使っていました。画面に寄り添わない、画面にぶつかるように、つまり対位法的に音楽を使っていたわけです。たとえば有名なのだと黒澤明の『野良犬』って映画で最後木村功の犯人と三船敏郎が対決するところで綺麗なピアノのコンチェルトが流れてきたりだとか。あれをもうちょっとダイナミックにやってみたいと思って、『百年の絶唱』の頃はやってたんですよね。ところが演出というものを考えた時に、そういう異化効果の音楽を使うことを忘れちゃってるんですよね。不思議なんですけど、無意識にそこのシーンの感情を、哀しいシーンだったら服の色も哀しい色を用意したいし、そこに寄り添う音も哀しい音にしたいっていう風にどんどんなっていたと、最近反省も含めて考えてますけどね。

――なるほど。『ラザロ』という作品は、エンターテインメント性があるというか、『複製の廃墟』なんかは刑事ものと言ってもいい筋立てになってるわけですね。『朝日のあたる家』も痴情のもつれの殺人事件というような、割と通俗的な面も含めたエンターテインメント性があると思います。で、『百年の絶唱』にもそういうホラー的、ミステリー的な枠組みというのがあったんですけど、そういう枠組みを突き抜けて映画がどっかに行ってしまったという、ある意味野蛮といえば野蛮だけれど、それによって我々も驚かされるという面があったわけですね。
 『ラザロ』はどちらかというとエンターテインメント性、物語の枠組みというのが強調されていて、もちろんそれに収まらない問題意識というのは至るところで見えてくるんですけれども、何も考えずに観てると単なる刑事ものにしか見えないという危険性もあると思うんです。これはおそらく井土監督の次回作とも関わってくると思うんですが、一種のエンターテインメント性というのと、例えば『ラザロ』の場合だったら、グローバルな資本の破壊的な力に対する抵抗というモチーフですね。それをどうやってすり合わせていくのかということについて、お考えを伺いたいんですけども。

井土 そうですね、今野蛮っていう言葉を聞いてね、いやいい言葉だなと思ったんですけどね(笑)。野蛮さって失われていくもんなんですね。どっかで洗練されていく。それは経験とか技術が上がって……むしろ今僕は精神分析を受けているような気分なのですが。たぶんね、面白く作ろうという風に『ラザロ』は作ってるんですよね。そこで『百年の絶唱』にあった野蛮さが失われてるんだと思うんですけど。野蛮さを取り戻さないとまずいですね。反省しかないですけど。あの……どうすりゃいいんですかね、共存って。そこは意識しないといけないんですかね。僕は問題意識はあると思うんで、それを入れる器としてはもっと一般的、世間的にわかりやすいものにしようと思ったのかもしれないですね。
 最初シナリオをやり始めた時に、どうやって素材とかネタを見つけていくかという話を監督としました。その時に、まあ世間の最大公約数的な興味というものがあると。それは一般性と言われるものですね。で、自分が面白いと思えるもの、自分の興味、その二つの輪っかがあるとすれば、それが一致するところを探さないとこの商売続いていかないよと。世間的な興味でやっていくと単なるマーケティングになって、何のために自分が物作りをやろうと思ったのかを忘れちゃって、単に儲けるために物を作ることにしかならない。これはたぶん面白いものにはならない。一方で、僕が面白いと思ってても、物作るのは多少なりともお金がかかるわけですから、誰も見向きもしないものを作っても、百年後に芸術として評価されるのであれば、それでもいいのかもしれないけど、やっぱそうじゃなくて、常に自分が面白いと思えるものを、果たして世間がどれくらい面白がってくれるのかを、一致させる部分を探さなきゃいけない。なんだろう……この仕事を長く続けていると世間の方を意識しすぎるのかもしれないですね。

――今のお話はよくわかって、洗練化とおっしゃいましたけど、確かによくとれば洗練化なんですね。ただ私の勝手な好みでどうしても野蛮なもの、壊れたものの方に惹かれるという面もあったりするので(笑)、ぜひもう一度野蛮なものも撮って頂きたいと思います。

井土 そうですねえ……二度と撮れないと思いますけどね、『百年の絶唱』のような映画は。

――すいませんなんか偉そうに……。

井土 いえ、ご指摘は僕が映画を続けるうえで本質的な問題だと思います。『ラザロ』の後の映画はもう撮影したので、より一般性を意識したものになっていると思います。しかし、もう一度野蛮に映画と取り組まなければならないと考えています。本当に今日はありがとうございました。
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by eizoubunka | 2010-05-12 11:06 | コラム
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